仙台の被災地からの便り

私の実家は、仙台市内の、ちょっと足を伸ばせばトレッキングも楽しめるような、緑多い場所にあります。
奇跡的なタイミングで両親が東京へ出てきていたことから、親は被災を免れましたが、家自体は予断を許さない状況です。
母の兄弟、つまり、親戚等に連絡が取れたのは、地震発生から、ようやく3日が経った頃。
叔母は、こう語っていました。
「水がないの。電気がないのも心細いし、寒いけれど、食べるものがないのよ。かろうじてあったカップヌードルを、そのままかじって過ごしてたわ」
もうひとりの兄弟と連絡が取れたのは、さらに翌日。
「電気がないから、携帯も使えなくて。スーパーに3時間並んで、ようやく買えたのが300円ぶんの食糧だけ。それでも、寝る場所があって、食べてる」
4日目に、最後の兄弟と連絡が取れた時、母は泣きました。
どの家も、中はあらゆるものがわけもわからないほど飛び散っている惨状だそうです。けれど、それでも、生きて、寝る場所があって、一日一食でも二食でも
食べられることが幸せだと言っていました。

大津波に見舞われた地方の方々、火災で焼け出された方々へ、救援物資を届けることは最優先の急務です。けれど、市内の、ごく普通の家庭ですら、
こういった惨状。
今、うちの近所でも、スーパーやコンビニの買い占め現象が起こっていますが、“万が一のために”と買いだめている電池や物資が、現地では、本当の意味での
ライフラインになっていることを、冷静に理解していただけることを願ってやみません。
多少の不便は、工夫という知恵で、きっとやりすごせるはず。
今回の災害は、東北地方のみならず、日本全体が体験している出来事。みんながひとつになれば、きっと立ち直ってゆけると信じています。

東北随一の都市だと言われる仙台ですが、住宅地には、港町から魚をかついでやってくる、昔ながらの行商のおばさんなどもまだまだいて、
うちにも、今回の震災で壊滅的なダメージを受けた港町からやってきていた“馴染みのおばちゃん”がいました。
「今日はいいの入ってるよぉ。ンまいとこ食べさせてやるかと思って持ってきたんだよぉ」
と。魚を“売り”に来るというよりも、まるで親戚におすそ分けを持ってきてくれるかのような人たちばかりなんです。
おばちゃんの見立てた魚は、どれもとびきり新鮮で、そしてびっくりするぐらいに良心的なお値段。
幼いころの私にとって、“魚やのおばちゃん”は、いろんな話を聞かせてくれたり、ほどけていた靴ひもを結んでくれたり、
まるで肉親のような温かさであったことを覚えています。

母がポツリと言っていました。
「おばちゃん、大丈夫かなぁ。自分が被災してたって、“大丈夫かぁ”って、電話してくるような人なんだけどねぇ」
と。

東北の人は、粘り強いと言われます。寒くて長い冬もコツコツとやり過ごす。春一番の小さな花を大切に愛でるように、
小さな希望もエネルギーに変えていく。
だから、希望をつないで欲しいのです。

電池ひとつ、ガソリン一滴が、必ずや希望につながります。
おばちゃんたちに、また、温かいご飯を食べさせてあげたいと思うのです。

小野綾子
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